2019年4月23日火曜日

犬のよこで歌う

最近わたしもユーチューブに動画をアップしています。

犬の横でうたうということをしています。

よかったらみてください。(なかなか再生回数がのびない、、)

https://youtu.be/G-zsazRRr9Q

ドイツでわたしのソロをやるには、どうしても歌詞が理解してもらえないということで、 英語に翻訳して書いてみました。

音楽に言葉は関係ないとよく聞くけれど、せっかく歌詞も考えてつくってるんだから、やっぱり、歌詞も何言ってるかわかったほうが 興味をもってくれるかなあとおもって、、

今後こっちでどのようにソロをやっていくかをもっとちゃんと、具体的にしていかないとな、と思います。
その第一歩が翻訳、、。

でも、わたしは英語が得意じゃないから、パトにドイツ語で説明して、英語にしてもらいました。

歌詞は、主語がなかったり、わざと主語をつけてなかったりすることが多いので、ドイツ語や英語にするのは難しいです。

こっちで歌うとき、プロジェクターかなんかで歌詞をうつすの、まえにやってみて、(ずいぶん前)お客さんに 歌詞がわかってとてもいい っていってもらえたのを思い出し、またやってみようかななんて思ってます。

そのためには翻訳作業がんばらんと。(まずドイツ語に自分で翻訳するのも大変だけど それよりもパトに頼むのもなんか悪い気がしてスキを見計らってたのんでおります。)


パトももちろん英語がパーフェクトじゃないからっていってて、ドイツ語のほうが詩としての表現を考えて訂正できるから(わたしの荒いドイツ語訳を) そっちのほうがいいんだけどなあっていってるけど、やっぱ、英語のほうが使える場所が広いから 英語で頼んでおります



シュニックシュナックの方は、日本語とドイツ語両方で歌っていて、日本語の歌詞ももちろんわかってほしいから、CDの中に歌詞カード書いて翻訳つけて入れています。


さあ、月末からパトが日本語を習いに行くらしいです。
わたしの苦しみがわかるときがきたようだな!

知り合ってから、5,6年?かな? ようやく自発的に日本語を学びたいと言い出した。
わたしてきには、別に学んでもらわなくてもいいんだけど(言葉がわからないほうがいいこともある)自ら望んで申し込んだようだから、思う存分学んでいただこう。

妙に上達したらしたでなんかくやしいな、こっちなんか8年かかってまだこのレベルだというのに。 もっかい学校いったほうがいいんかなあ、、〜 悩む〜

ドイツの網戸

春がきたぞ〜!
なんの綿毛かわからないけど大量の綿毛が押し寄せてくる季節になりました。
(しらべたら おそらく白樺かなんからしい)

うちはこう、カドッコになってるので、吹き溜まりで、綿毛が大量にたまります。
そして容赦なく家の中にはいってきて、ベッドの上にうっすらつもります。
寝ようと思ってベッドカバーを外すと舞い散る!
ふわふわしてるので、やっかい!


綿毛のせいかどうかはわからないけど 花粉症的な症状がでます。

そして、ああ春になったな、と思います。

もちろん満開の桜やその他草花なども感じますけど。

網戸っていうのがなくって、ちょくで入ってきます。

網戸的なものはロスマンやdmに売ってるので、夏場、蚊、はち、ハエなどはいってくるのを防ぎたいときはそれを買います。

なんか、網部分と、マジックテープの棘棘した方に接着テープがついたようなやつがロールされてるのが入っていて、マジックテープの棘棘を、(棘棘という書き方をきにいった)
窓の外の枠に貼っていきます。
そして 網を窓の大きさよりやや大きく切って
その棘棘につけていきます。(網の細かさが棘棘にささるしくみ)

簡易的な感じで隙間とかあきやすいので、気をつけないとそこから蚊やハエが侵入してきますけど、綿毛とかは防げます。

けどめんどくさいから 網戸つけません、、


つけたこともあるけど全部の窓やると考えるだけでめんどくさすぎて 綿毛くらいはいってきたらいいわい、ハエは追い出せばいいわい(ハエけっこう大きいのとかほんとにいやだけど)
蚊はさしてこないならいてもいいわい という ワイルドな考えになってきております。
でも一番やっかいなのは ハチ!
ハチだけは勘弁していただきたい。


ドイツのってかいたけど、わたしベルリンの生活しかしらないから 他の地方ではちゃんとした網戸があるのかもですけど。でもどっかいっても、まだみたことないかな。



2019年4月2日火曜日

生活するということ 7 わたしの場合

結婚するということは、家族が増えるということです。

パトの両親、兄弟もわたしの両親、兄弟になる。
幸い、パトの両親はまったく嫌な感じがなく、私にもとても良くしてくれます。

まだ結婚する前、パトの両親に会ったとき、この人達にそだてられたなら この人(パト)は大丈夫だと思いました。

クリスマス、イースター、誕生日。まいどまいどたくさんの親戚たちが集まる中に行き、それはそれは大変です。
家族、親戚たちはぜんぜん嫌じゃないんです。むしろ明るくって、やさしくて、好きなんです。
しかし、ドイツ語〜! こればっかりは。
話がわからない。
もちろん最初の頃よりはましになってるけど、それでも全然だめ。

このまえ20年こちらに住まわれてるかたにお会いしたけど、その方も、まだまだって言ってた。
20年でまだまだなんだから!たった8年なんかまだまだすぎる。

結婚した当時は6年目とか、そんで家族とかに会いだしたのは、4年目、5年目?くらい?
なのでまだまだ加減は、ますますまだまだなんだけど。

去年もクリスマス疲れて熱出ました。

でもこれも、生活。

そういう家族の付き合いを通してだいぶ、ドイツの生活というものの一部が覗けた気がします。



そんななか、犬を飼いたい欲がふくれあがり、パトを説得し、ティアハイムなどに犬を見に行くことに。結果ティアハイムではなく、ポーランドの犬の施設から犬を救出してるグループから譲り受けることになるのですが、ほんとに、犬を飼い始めてよかったです。
その犬がchipsyです。


そういう感じになってきて、
ワーホリの頃、シャンプー、リンス買うのにも戸惑っていたのとはだいぶ深くなったような。「気が」します。

でも、あくまで、わたしのばあいです。
わたしは日本食レストランという環境で仕事してますし、もっと、ハードな、ドイツ語文化の中に飛び込んで頑張ってる方なんか、とっくにいろいろ深み増してるかもしれませんし。


そして、ここ最近、仕事についてもかんがえるところがあって、
わたしはここでこうしてていいんだろうかと。
レストランの仕事はもう覚えてるから楽だし、環境もぬるま湯のようで居心地もいいし、
でもなんかちがう と思ってきてしまい、 仕事を徐々に減らしてもらっています。
頭の中が、仕事のことでいっぱいになってしまって (もちろん ストレスもありますので)
これはなんかちがう、と思ったのです。また、肉をたべなくなってから、肉を調理することも抵抗をかんじているのも確かです。

それで 週5、6日働いていたものを 週4,それから週3、 いまは週2です。
ミニジョブという、税金が発生しない給料内ではたらくというものに変えてもらいました。

おかげで頭はだいぶすっきりしてきて、 昔のように、いろいろ考えられるようになりました。

創作意欲もでてきました。

シュニックシュナックも、ソロも。

でも!やっぱり、日々、お金は要るので、、。チプも病院いったりエサ代でお金かかるし。

その間でいま格闘してます。

なにか新しい仕事をはじめようか。(肉をあつかわない仕事)
それとももっと音楽でやってくべきか。
でも定期的な収入というものが必要です。
パトとは口座を分けてるので、もちろん生活費などパトのほうが多めにはらってくれたりしますが(パトのほうが収入が多いため)、それでもかかるものはかかります。




また脱線しましたが、
いまこういう「生活」をおくっています。
パトが社交的な人なのもあり、近所付き合いもよく、
前にも書いたけど、近所のコミュニティの庭にも参加させてもらって、自分の庭をもらえたし、
近所付き合いをしてるとますます、生活感がでてきます。

こんどうちのまえの広場にちゃんと名前をつけようという話し合いがあるからそれに一緒に行こうとか(わたしはバイトがあるからいけないけどパトがいく)
こういうデモがあるとか、
あと、暖炉のことで大家さんに言ったけどお金がないから暖炉廃止できないっていわれたから、もう自腹でやる!という情報をきき、じゃあうちも一緒にやっちゃおうかなっていうことになったりとか(まだ大家さんに聞き中)
そういう話に巻き込まれるようになってきて、 ああ、わたし、ここで「生活」してるんだ、って思いました。

だからこのことをかきたかったがために 7かいにも分けてぐだぐだと誰も興味ないことをかきました。

もうすぐ9年目に突入。
長さはさほど問題じゃないと思うけど、ようやく、ああ生活してるなってじんわり思えるようになりました。

近所の人と道であって少し立ち話したり、留守中に猫の世話しにいったり。近所の人のお葬式にも出席した。
お葬式はなるべく出席する事態になってほしくないけど。

ドイツに来る前想像した、「生活」というものに近づいたなと思います。





生活するということ 6 わたしの場合

当時付き合っていた彼と別れ、そのたしか、何ヶ月かあと、リコリスのライブをしてて、それをみにきていたパト。
共通の友達もいて、何喋ったかおぼえてないけど、なんか喋って、楽しかった記憶がある。
そのあとパトが、ライブたのしかったみたいなメッセージを送ってきて、メッセージをやりとりする仲になり、一緒に音楽をしようということになって、(それがシュニックシュナック)何度か会って、つきあうことになった。
外国人と付き合ったことがなかったので戸惑いましたが、いまじゃ、外国人であるという意識はぜんぜんないです。

パトは日本語もまったく話せず、(コンニチワくらいは分かる状態)ドイツ語のみの会話。
パトの家族や地元の友達の中に入るのは最初は苦痛でいっぱいでした。
それまでは、バスチアンはドイツ人だけど、 ともだちはほとんど、日本、イタリア、フランス、などと、ドイツ人のドイツ語の中で埋もれて生活してたわけじゃないのです。

でもまあ、なんとかなるもんだ。

このあたりから、ぐっと、「生活」に近づいた気がする。

このあとの、ビザの切り替え(フリーランスビザ取得)に苦労するんだけど、パトが手伝ってくれて、パトにビザの大変さをわかってもらうことができた。
そして 私達の中に、結婚という考えもでてきた。

日本に一人で一時帰国してるとき、母のつきそいで救急車にのることがあって、その時、 結婚しようと思った。早く結婚して、母を安心させたいと思った。

それからパトの家に引っ越しし、今度は家賃200ユーロ。時代と反して引っ越すごとに下がっていく家賃。そして場所はクロイツベルク。こちらも人気の地区です。
ビザには苦労したけど、引っ越す家には苦労してなくて、 なんでも一個わるいことがあれば一個いいことがあるんだな、っていう感じです。

パトも前はWG(ルームシェア)だったけど数年前?くらいからもう新しい同居人を探すのも面倒だし募集をやめて一人で住んでいた家だったので、スッといれてもらえた。
しかし、なかなか一緒に住もうと言ってくれず、やきもきしました。(パト超慎重派)

そして翌年、2016年秋に結婚しました。
日本では このひとと結婚しますライブをし、(それが結婚パーティーのかわり)みんなにきてもらえて嬉しかった。
そのあと、ベルリンの役所でちいさな式。
式といっても、
なんか役所の一室で書類にサインするだけってきいてたので。
ふたりだけでやるようなもんだろと思ってた。

でも、日本から両親と妹がきてくれて、すごくうれしかった。
飛行機代結構するし、母が心臓(もうよくなったけど)の病気をしたので、飛行機は無理だろなと思ってたし、そもそも、結婚式と呼べるようなものではないとおもってたから、来てほしいと呼ぶことすら頭になかった。
父も知らぬ間にパスポートを取得してくれてたらしい。
人生で一番嬉しかったことかもしれない。家族がきてくれたこと。

パトの両親、妹、おばあちゃんもベルリンにきてくれた。

それから友人たち。

ちなみに、わたしは自分の住んでる地域、クロイツベルク・フリードリヒスハインの役所でやったけど、もっと綺麗な豪華なとこもあるらしい。わたしのとこは 簡素な建物の簡素な部屋でした。
あと、牧師さんとか神父さん呼びたかったら呼べるみたいです。わたしたちはべつにいいです、っていって呼ばなかった。 ぜんぜんそういう、特別な、なにか厳かなものとおもってなかった。役所の手続きのひとつのようなかんじがして。


なんかだれかわかんないけど 区長?それかその役場のだれか偉いっぽい人がなんか話をしてくれて、各々サインして終わりです。


父がないてるのをみて、こらえきれず泣いてしまった。
それで、ああ、わたし、結婚するんだとおもった。
ウエディングドレスも花嫁からの手紙もなにもない簡素な式だったけど。

その結婚式の前日に両親と妹とだけで 小さなまちに小旅行にでかけた、日帰りの。
そこで偶然の出会いで、教会で結婚式のバイプオルガンを弾いてもらえたこと。それもとても感動した。

いまおもったら、目に見えない力も、祝福してくれたのかもしれないな。ありがたいな。


結婚に対して昔から別に特に思い入れがなく、 りっぱな結婚式をしたいとかウエディングドレスを着たいなんてまったく想像すらしなかった。想像通りにウエディングドレスきてないけど。
でも一応、ワンピースきようとおもって、 通販で麻のワンピースを買った。
パトにじゃがいもの袋みたいだね と言われた ワンピースと、リアムがつくってくれた、花かんむりで結婚式をしました。 それで十分。
家族と友達がいてくれて、目に見えない力もお祝いしてくれて、それ以上必要なものなんかない。

そういえば、結婚決めたのも、親に、メールで ふたば、結婚するから こんど日本につれていくね みたいな感じで報告したな。
パトには、日本ではだいたい、 親に、この人と結婚していいですかっていうんだぜっていって、 日本につれていき、両親にあってもらって、パトは、父と英語で話していた。緊張してニヤニヤしてたけど。わたしもなんか緊張した。
あとから父がパトに、双葉が自分で結婚相手みつけて このひとと結婚するからって勝手に決めてからいったことが嬉しかったっていってたらしい。おとなになったんだな、と思ったと。

そういえば結婚を反対されるなんてことは頭の片隅にすらなかったきがする。
相手がドイツ人でも。 それは幸せなことだな。
信頼関係が、多分ちゃんとあるんだ。

だいぶ脱線しましたが、そんなこんなで結婚。
ビザも無事、通称結婚ビザ・配偶者ビザにきりかわり、ビザの心配はなくなりました。
これはかなり大きい。
海外で生活する人にとって、ビザはいつも大きな問題です。
(就職して仕事のビザだしてもらってるひとは別でしょうが)

やっと、足元がかたまったという感じ。

といっても、これはあくまでわたしの場合なので、人によって様々です。

この時点で、ベルリンにきて、5年。(わたしのとっての)本当の生活はこれからっていう感じです。









生活するということ 5 わたしの場合

さてベルリンにもどってきて、まずすることは、 ビザをとること。

当時は通称 学生準備ビザというのが比較的簡単に取れたので、だいたいのひとは、
ワーホリがおわったら、学生準備ビザというのに切り替えそれで2年居られた。

学生準備ビザというのは、大学にいきたいから、そのために語学を勉強しますのでドイツに滞在したいですというビザ。
比較的簡単といったけど、それでも、保険に入ったり、銀行口座を開設したり、友達に手伝ってもらいながら、書類をつくって、予約をとって、 スージーという日本語が話せる子についてきてもらって 2年ビザを取得した。

家はバスチアンと二人暮らし。こんどはノイケルンという、いま若者に人気の地区で、前のゆったりしたツェーレンドルフとはぜんぜんちがう地域。
でもここからならどこでもだいたい自転車でいけちゃう。

家賃は220ユーロ。友達も比較的近くの地域に住んでいるし、ライブをする場所もココらへんにはたくさんある。

共同で借りてる練習スタジオの仲間にもいれてもらって、ますます、住んでる感は強まっていっております。

買い物も1年目よりは比較的スムーズ。何が何だかはだいぶわかってきた。

そして、やはり語学が自信ないのでまた少し通ったりした。

結局 B-1くらいまでやったのかな。(A-1.A-2.B-1.B-2.C-1.C-2とどんどん上級になっていく)
でも語学学校はお金払って、出席しとけば勝手に上級になっていくので。
ホントの実力をしりたかったら、公式テストみたいのを受けないとです。
わたしはお金がないのでもう語学学校はやめちゃった。

なぜなら、学生準備ビザは最初の(カレンダーの)1年は働いちゃだめなのです。
わたしは、1月に取得してしまったため、まるまる1年はたらけなかったです。
しかし、学生の休みの日、祝日や夏休みなどは働いても良いらしいので、
いつもの日本食屋さんではたらかせてもらっていました。


3年目からはまた日本食屋さんで働きながら、 音楽やったり、旅行に行ったり。
このあたりからあんまりはっきりとした記憶がありません。

同じような毎日だったのかな。

でもそれは また、そこに暮らしている ということでもあるのかもしれません。

だんだん、道も覚えてきたり、どんどん強くなった気がする。

ほんとに、なにしてたんだろ、って今思い返そうとするけど、思い出せない。
多分ブルガリアに行きだしたりしてたかな。
ブルガリアの旅行中に、まこさんと、punktum(過去4回やった 日本のアートアニメを上映する会)を始めようって企画したりしたな。

生活しようって決めてきたのに、あいかわらず、生活のためのバイトにあけくれる日々だったような。
バンドをやったり、ソロもちょこっとやってみたり。
曲をかくために いい景色のなかで過ごしたいっておもってたのに、
曲をかく余裕みたいのはまだ、ちゃんとうまれてなかったのかな。
他のことで一杯だったような。

バンド用の曲はつくっていたけど。

スザンナとリコリスっていうバンドやって、スザンナがイタリアに帰ることになって、リコリスは一回休憩にして、
その後、リアムとツヴァイウントツヴァンツィヒツヴィリンゲというバンドを組んで。
それはでもあんまり活動しなかったな、
練習は時々してたけど。

リアムは他にもバンドを何個もやってたから忙しいのと、よく旅にいくのと、私がバイトが忙しいのと。

そんなこんなで、 そうだ、 リコリスだ、
リコリスのライブを パトが見に来てたんだ。
そこで、夫となる パトと出会います。





生活するということ4 わたしの場合

さて、1年で日本に帰るといったものの、もう、心は決まっていた。
まだここにいたい。
たった1年じゃ何もわからない、とおもった。

ただ、1年住んだだけ。 生活 というのとはなんだか、違うと思った。

でも、日本には仕事もある。
そして、なにより、ビザ。
ビザのために貯金がいる。
一度帰って、仕切り直してこようと思った。

家は1年の約束だったので、ハイデのうちは出ることにして、バスチアンの家が一部屋あくというんで、そっちに12月には帰ってくると約束して、荷物も地下に少し置かせてもらって、
日本に帰った。

よく、一度日本に帰っちゃったらなっかなかもどってこれないよ、っていう話がある。
なにしろ日本で生活しはじめたら 慣れちゃって めんどくさくなる。語学の心配も、ビザの心配もない。
でもわたしは、荷物をおいてきた。 家の約束もしてきた。
帰らなくちゃいけない理由をちゃんと残してきた。

そして、仕事関係も、ご厚意に甘えて、承諾いただき、(いつもほんとに心から優しくしていただけています)
写真の仕事も職場復帰させてもらい、あとはカフェの仕事と、後半それでもお金が貯まらないので、夜に近所のパチンコ屋さんで3ヶ月でやめますというお話をしたけど、それでも雇ってもらえたので3つ仕事をかけもちして、お金を貯めた。パチンコ屋さん自体、入ることすら生まれて初めての状態で、あきらかに見た目がほかの働いてるひとたちと違うのに、やさしく教えてもらえて、ありがたかった。休憩室のタバコ臭さには参ったけど。

いま、ふりかえってみても、 みんなやさしい。関わる人、みんなやさしい。
本当にありがたいです。


さて、2012年の12月はじめ、約5ヶ月後、ベルリンに再びかえります。

空港に見送りに来てくれた、母が いってきます、のとき、みみもとで、おかあさんの夢だから っていってくれたことが すごくじーんときた。
母も海外で暮らしてみたかったんだ。

しっかりしなくちゃと思った。





生活するということ 3 わたしの場合

貯金もほとんどなかったので、とにかくバイトを探さないととおもって、
語学にまったく自身がなかったので、日本食レストランをさがした。
あっとベルリンというサイトで募集していたので、応募して面接を受けた。

そこでいまもまだ働いてます。
いまじゃ ベテランみたいになってしまった。

そこのレストランで仲の良い友達もできた。
そこでやっぱり 世界はぐっと広がった。

いままで、手探りで自分ひとりでやってたけど、 同じ日本から来てベルリンに住んでいる、いわば先輩たちがいろいろ教えてくれた。

いろんなつながりで、バンドを始めたりもした。
だんだん、生活してるな、と思えるようになってきた。

一人でこれまた興味なかったパリに行こうと思って 旅行したり、
まだ、さほどなかよくなかった まこさんとニュルンベルクのクリスマスマーケットに泊りがけでいったりもした。(そこで仲良くなった)
まこさんはわたしより、たしか3年くらい前からベルリンに住んでる。
その前はカナダに居て、わたしがカナダにライブしにいったとき、ニアミスで会いそうだったということが、その旅行で判明した。世界はせまいな。

ゆっくりだけど音楽活動もして、友達のうちに泊まったり、バーにいってみたり、夜中にチキンを食べに行ったり、公園でただすわってたり、フリマにいったり。
ベルリンをベルリンらしく、楽しんでいたとおもう。
クラブにはいってなかったけども。

ワーキングホリデーは やっぱりとっても楽。
1年という期限がついていること。
働いてもいいということ。
あと、なにもかも新鮮。
また、これは旅行じゃなくて住んでいるんだという空気も感じられる。
そういう経験ができる。

よる、家に帰るとき、暗い家々の屋根の上に 月がでていて、その景色をみて、
ああ、わたしはいま、ここにいるんだ、きてよかった、と思ったことをはっきり覚えてる。


といっても、だんだん 家に帰るのがおっくうで(遠い)まちなかの友達の家に入り浸るようになったんだけど。


そんなこんなであっというまに一年がすぎた。


生活するということ 2 わたしの場合

私は、日本で夏に ゲーテ・インスティトゥートというところで 基本の基本くらいのドイツ語のコースにちょっとだけ行っていた。
ので、 ドイツでもやはり語学を最初に学ばないとと思って、ゲーテのドイツ校にいくことにした。
それのスケジュールで行けるところがベルリン校のみだったので、行き先は一番興味のなかったベルリンに決定。

なぜ、ベルリンに興味がなかったかというと、首都=都会 と思っていたから。
わたしは大阪にいて、しかも きれいな景色のなかで暮らしたいと思ったのが 理由なので、
自然の多いところにいきたかった。
ベルリンには一度も行ったことがなかったし、今思うと写真とかもさほど見たこともない状態で行ったので、ただ、頭の中で 都会だろう と思っていた。

今 わたしが思うベルリンは 緑がいっぱいあって 街も大きすぎず小さすぎず、ちょうどいい。これをベルリン以外に住んでるドイツの人に言うと、驚かれる。
ドイツの人にとっては ベルリン=騒々しい都会 という印象みたい。
大阪や東京からすれば 俄然静かなかんじがするけど、、

家の探し方などもぜんぜんわかってなかったので、とりあえず
日本にいるときに WGgesucht というフラットメイト募集の定番のサイトがあるんだけど、それをみて、一人の人にメールを書いた。

そこが ハイデのうち。 なぜそこにしたのか、どうやってメールを書いたのか殆ど覚えてないけど、家賃250ユーロ、一軒家で庭もついて おばさま二人との同居。
場所はツェーレンドルフという ベルリンの中心からはすこしはなれた、大きい家がたちならぶ地域。 大きな湖が傍にあって、ときどきひとりで散歩にでかけたりした。

ハイデは会うこともしないのに、メールでokしてくれた。
昔はどうかしらないけど、普通、メールして、返事が来たら、会いに行って、話をして、それで一緒に住めるかどうか決まるみたいです。
日本から決めていくというのは、まれです。

ベルリンについて、たしか、次の日にハイデに会いに行って やさしそうなひとで安心したのを覚えてる。
家は大きく、 地域もなんだか魔女の宅急便にでてきそうな素敵なとこで、緑もいっぱい。(5月にいったのがまた、良かったんだろうな)
こんなところに住めるの?!とすっごくうれしかった。

また、ゲーテのホームステイシステムもあったので、最初の1ヶ月は、エレナとライナーの夫婦の家に住まわせてもらった。
そこでもたくさんいい経験をした。ライナーはドイツ人でコックさんなのでいつもおいしいごはんをつくってくれた。
エレナ(ウクライナ人)と食後に散歩に行ったり、たくさん話をしたり、あと、エレナの行くロシア系の教会も連れて行ってもらった。
彼らの家族とクリスマスを過ごしたりもした。 引っ越ししてからも何度か家族のあつまりによんでもらって、いっしょに過ごした。

ゲーテがおわってから、ハイデのうちに引っ越しをして、そのときはまだスーツケース1つぶんのにもつ。
最初わたしの部屋は2階だったんだけど、一番上にすんでた学生さんが引っ越したのでわたしはそっちにうつった。
三角屋根の一番上。狭い部屋だけど、すきだったな。

また、ベルリンについて数日の間にU夫婦と会った。日本での共通の友人が居て、その人がしょうかいしてくれたU夫婦。いまでもずっとよく会っていて、ほんとうにいい出会いだった。

最初のゲーテにどれくらい通ったのかまったく覚えてないんだけど、その後、違う語学学校にいった。なにしろ ゲーテは他と比べて だいぶ、値段が高いことがベルリンにきてわかった。 でも授業の質はとっても良いとおもう。通ってる人たちも同年代で仲良くなれてうれしかった。

とりあえず、3ヶ月ほど語学学校にかよって、基本のキホンくらいはなんとかわかるかな、、ていう程度にはなった。
それから、バイトをさがした。






生活するということ 1 わたしの場合

わたしが最初ドイツにきた理由は、「生活したい」という理由だった。

日本でも 音楽活動などもやって、CDも作らせてもらったり、仲の良いともだちもたくさんいて、家族と住んで、充実していたんだけど、
もちろん殆どの日は仕事場と家の往復。

景色が灰色だった。

それは比喩じゃなくって、こんな灰色の景色見てて、わたしは歌なんか作れないと思った。


それまでも作ってたじゃないかとおもうけど、でも本当にそう思った。

ニッポンコネクションという、ドイツのフランクフルトでの日本映画祭でライブをするという招待をいただいて、初めてドイツに来た。 
わたしは なぜか、昔から、ドイツとパリだけは行くことがないだろうと思ってたんだけど、
招待ということでタダで行けるしっていうんで行くことにした。

そういえば、その何年か前に、初めての海外旅行を母とふたりだけで オーストリアにいったときに、ドイツで乗り換えだったんだけど、 わたしはここに帰ってこなくちゃいけないって思ったことを思い出した。

フランクフルトのついでに、他の町も旅行して、 あれ、なんか、すごくいい、と思って、
半年後、こんどは妹と旅行に来た。

それで 次行くときは住もうと思ってた。

そんななか、 こんな景色はみてたらだめだ っていう気持ちになって、 じゃあドイツに行こうって思った。

一人暮らしをしたこともなかったし、家に帰ったら母のつくったご飯が食べられて、お風呂にも入れて、それは今思うと最高な暮らしだけど。
ちゃんと、自分の生活がしたかった。

当時すでに、RSKの アレすけくんというキャラクターの声を担当していたので、そちらにも迷惑をかけてしまうということで、いろいろ対策をして、1年だけというお話をした。
話をするときすごくドキドキしたのを覚えてる。
いつも良くしてくださるみなさんにご迷惑をおかけしてしまうということと、
でもきっとみんな理解してくださるという確信もどこかあったんだけど、、。

それでワーキングホリデーでドイツに来た。
ベルリンが、これまた一番興味なかったけど、語学学校の予定と、jojoさん(非常階段の)に占いをしてもらった結果も、その時期がいいということで ベルリンにした。
jojoさんには大きく背中を押してもらった。

準備は前からしてたんだけどちょうどその年の3月東北の震災があって、気持ちも大きく揺れた。それでも、もう決めてたので

5月後半、ちょうど気候もいい時期に ベルリンでの生活が始まった。