2018年8月18日土曜日

ごきんじょさん、ジャックのこと。

去年の秋に私達の上の上に住んでる 通称ジャックというおじいさんが亡くなった。
ジャックは夏になるとベルリンに戻ってきて、冬になるとスペインへ行くひとりもののおじいさん。
いつもだいたい赤いTシャツに短パンをはいて 首から笛をさげていて、ほとんど一日中外のベンチに座って新聞を読んだりクロスワードみたいなのをといてたり、近所の人と話したりしていた。
耳が少し遠いので声が大きく、ジャックがいるとすぐわかった。
ジャックはこの同じ通りで生まれずっとこのあたりで生きてきた。
75歳くらいだったとかっていうから、戦時中に生まれたのかな。
ジャックは少し風変わりで、70年代のどこもかしこも喫煙でレストランなんかが煙で真っ白になるとかいう時代のとき、ここクロイツベルクでどこからかラクダをつれてきて町を歩き回り 喫煙反対運動をひとりでやってたらしい。 近くにhenneというわりかし有名なチキンの丸焼きみたいなふるいレストランがあるんだけど、
そこにラクダをつれていき ラクダが大きすぎて入れなかったというエピソードがあり、その写真も店の中にあるらしい。 

ジャックは旅行にもたくさん行き、日本にも行っていたみたい。ジャックに会うと コンニチワとか サヨナラとかいってくれたな。

私も今の家に住んで、2,3年だけど、会うと時々何か話したりした。
ジャックはこのあたりでは みんな知ってるっていう感じのひとだった。

そんなジャックが秋に亡くなった。 ガンで末期かなにかだったみたいで、
そしてジャックは自分で旅立つことを決めたらしい。
正装して(いつもTシャツと短パンだったジャックが)川に入ったらしい。

上に住んでるアンドレアがパトにその話をしてきた。
アンドレアは幼稚園に通う息子と母子の二人暮らしで、ジャックとも仲良くよく一緒に食事してたりしてたみたい。
パトから聞いた私はショックで泣いた。パトも泣いてたし、アンドレアも泣いてたって。
パトもだし、アドンレアも私よりずっと長くジャックとつきあいがあるんだもんな、、

でもジャックらしいと思った。わたしはそんなに深く彼をしらないけど、それでもそう思った。
自分でちゃんと選んだんだと。 パトも いつも外にいた彼が病院の部屋に閉じこもってるなんて考えられないね、といっていた。

ジャックは身寄りがないので お葬式の段取りなどはアンドレアを中心に近所の人達でやった。お金も出し合ったりして。
ジャックのお葬式(こっちでお葬式に出席するのは初めてだった)には近所の顔見知りのひとたちが大集合していた。6.70人は居たかな。うちのアパートメントの人だけじゃない。
そこでわたしは歌うことをたのまれていたので、自分の曲、おわらないせかい という曲を歌った。 歌いながら、ああ ジャックがそこにいるという気がして、ジャックの写真にかけられたあのいつもの笛をみて、涙がとまらなかった。
参列者も泣いてた。
わたしなんか新参者が泣きながら歌ったりして、すこし恥ずかしかったけど、あとでみんなにとても良かった、といってもらえた。

そして、ついこの前、夏になったのにジャックがいないなんて、という気持ちからか、
近所の人達で広場でちいさなパーティーが催された。
料理をもちよって、ジャックの写真(大量にのこされているのをアンドレアが所有していてみんな好きな写真をもらっていい。うちもすでにわかかりしジャックとロバがうつってるいい写真があったのでそれをいただいている)をみたり、おしゃべりしたりして過ごした。 
ジャックのおかげで近所のいままで話をしなかったひとたちが集まって喋ったりしてる。
みんながもっと、近くなった。 わたしもいまだに、近所の人達にコンサートは次いつやるの?とか気にしてもらえている。
このパーティーは絶対に毎年しようって、あるおばさんが言ってた。また来年ね!といって彼女は帰っていった。どこに住んでるのか、名前もわからないけど、ジャックによってみんなつながってる。

これらは彼が残した最高のものだと思う。 
うちのアパートメントの一階の廊下にはジャックの写真がかけてある。

ちなみにお葬式の準備だとかなんだとかで ジャックの本名はぜんぜんジャックじゃないことが判明した。なんでみんなジャックってよんでたんだろか。
そして彼の部屋には荷物が大量にあり、それは近所にあるクロイツベルクミュージアムに寄贈されることになったとか。 展示されるなら見に行ってみようと思う。

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